【メジャー書評】植島啓司/処女神―少女が神になるとき―

syojyo

データ
作者:植島啓司
出版社:集英社
発行年:2014年
紙数:316
版型:195x140(ハードカバー)
割付:なし
文字以外の要素:写真、図表
表紙:
カバー:あり
印刷:大日本印刷
製本所:ブックアート

寸評
著者は宗教人類学者。
○○人類学者の書くモノっていうと、
どうも国内外の実例を挙げながら
比較に終始するだけの、
「だから何なんだ、日本の独自性の否定か」、
みたいなのが多いのだが、
本書はネパールの生き神クマリを中核にしながら、
飽くまで海外(ネパール近圏)にスポットを当てることで
本来の核の輪郭が描かれていくという手法である。
もちろん、私などの門外漢には大変興味をそそられる
伊勢神宮の「床下の秘儀」なんていう神事に
登場する少女との比較などもあるが、
それは著者のクマリ考察の過程(初期段階の感想)を
逐一述べたに過ぎず、
章を構成するパーツの一部(割合的には四分の一や五分の一)
であって主体ではない。
著者の最大の関心はヒンドゥー教国なのに
クマリが仏教カーストから択ばれることであり、
「少女」を生き神に択ぶのはネパール以外では
見られないことであり、つまりは
「処女神クマリ(美少女)」の存在それ自体にある。

まず冒頭からして「彼女はずっとぼくを見ていた」
という書き出しである。
この一見小説風の表現の「彼女」とは
室生寺の十一面観音なのである。
これだけでもこの著者がフツーの
しゃちほこばったガクシャと毛色が異なる、
と匂わせるのであるが、
目次の「ロリータ」「エコール」という章題から
いよいよそれは確信に至る。

本書のもうひとつの特徴は
カラー写真が比較的多いことで、
当然そこには歴代クマリのものも含まれている。

ネパールといえば個人的にはどうしても
釋迦のイメイジが強く、インドとの関連では
ヒンドゥー教が社会と密接(国教)といった程度の
認識であったが、2008年に廃止された王制と
新体制での国教事情などにも触れつつ
とにかくネパール社会での宗教の様相が
詳細に語られていく。宗教一辺倒ではなく、
歴史や政治も踏まえての考察(文章)は
読み物としても得るものが多い。

また最近の研究者の本(論文)に比較的多い、
先行研究論文の批判が含まれている点も
個人的には好印象。

初潮を迎えていない純潔な少女「クマリ」が
実は男性神の配偶者であるというクマリの起源を
伝説からたどる第4章、
ネパールの仏教やチベットのダライ・ラマと
輪廻の観点で比較を試みる第5章、
少女の通過儀礼としてのクマリの身体的特徴と
ゼロの無限性にせまる第6章、
十三歳という境界性(終わりと始まり)を
芸術作品を通して観る第7章、
安易に文化に干渉する阿呆外人のウザさを実感する11章など
中盤が読み応えのある濃い内容。

境界性をテーマにした長編を長らく執筆中の小生であるが、
参考文献がまたひとつ追加された次第である。

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