【同人書評】江古田文人会/零(2016年春号)

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江古田文人会/零(2016年春号)

データ
作者:横山翔、傘と紙魚、川島佑太、他2名
紙数:120
版型:A5ソフト
割付:上下二段
文字以外の要素:――
表紙:コート
カバー:なし
印刷:ちょ古っ都製本工房

【御縁と寸評】(ピックアップレビュー)
見本誌コーナーの方へ歩いてると、何やら視線を感じそちらを
見るとかわいらしいぬいぐるみが(微笑)。
そのもふもふされたがってるぬいにふらふらと吸い寄せられて
「こんにちはー」と店の人にあいさつをされる。しまったー!
ぬいに伸ばしかけた手を慌てて本の方へ捻じ曲げて掴む。
タイトルは『零』とありフォントもオシャレな感じだが、その下に
つぼみが四つ付いた桜の一枝が配されている。
まず思い浮かんだのは同期の桜――神風特攻隊であった。

文人会という響きに新鮮さを覚えつつどのような集まりなのか、
お話を伺うと大学のサークルとのこと。しかも現役(2,3年生)。
若い人の書いた文章(それも純文学)を是非読んでみたいと
思い、購入。(タイトルは特にゼロ戦とは無関係)
まさにぬいに釣られたわけですが、良い御縁でした。

横山翔『自殺癖』――
ある目的のため初対面の男と寝まくる「わたし」の独白から
始まる。そのうちの一人となる「僕」は彼女の問いに興味を覚え
再び会って哲学的な議論を交わす。
夢と現実、自殺と殺人、意識と無意識、期待と不安――
議論と再会を重ねる過程で二人はそれらの境界が曖昧で
判断しがたいという現状を認識せざるを得なくなる。
「わたし」はずっと求めていた「答え」を自覚する――。

ラストの展開はありだと思うが、ただ一点、「わたし」の衝動が
その行為の原動力であるなら、「僕」の生きがいであるカメラ
に対してもその衝動をぶつけたほうがより劇的かつ象徴的に
なったかと思う。しかし「わたし」はそれとは別の行動をし、
「あなたが求めていた写真って~かしら」の一文がくることで、
なんだか急に確信犯的な悪役になってしまった感がある。
別の言い方をすれば、裁判でこの「わたし」を有罪にしたくなった。
つまり、それまで(曖昧ゆえに都合よく)同調できていた心理が、
最後の最後で別人格になったような唐突感である。
異常性は強調できても、境界の曖昧性という本来的な流れには
棹差す結果になったようで惜しい。

傘と紙魚『林檎』――
亡くなった父親の双子の弟優太郎と、父親の娘花雪との
どことなく面映い日常を描く前半部は、抑制された筆致が醸す
二人の心理描写の書き分けが上手い。特に優太郎の行動
(やその行間)からは(私が同姓で硬派で年も近いせいか)
彼の心情がかなり掴めるのであるが、花雪の理解をあやふや
にすることで読者に推理の幅をもたせたまま物語の展開に
興味を向けさせることに成功している。

中盤の事件は緊急事態にも関わらず「ねこちゃんいじめ、
やめ、やめないならっ・・・・・・通報、しますよ・・・・・・!」に萌え。
ただその後のアクションシーンに重点を置いた描写は、作者
の趣味と私の趣味とが異なるところで、その齟齬は最後まで
ずれたまま、わくわくしながらアダルティシーンを待っていた私
としては、二昔前の少女漫画かトレンディドラマかといった結末に
「そこはやさしさよりもはっちゃけて欲しかったー」と仰け反った。
優太郎と花雪の室内アクションシーンが見たかったデス。

@

川島佑太『有希』――
良いですねえ。主人公も世界観も非常にフィーリングの合う作品です。
そして何より若い! 作者自身「今しか書けない作品」と仰ってますが、
青春から一歩踏み出す時分の若い男女が、女の喪失(別離)によって
更に悶々とした試練(人生)に必死で向き合おうとする男(の心情)――
というのはやはり若い時にしか書けないかと。かくいう私が一番初めに
小説という体で仕上げた小品もまさにその雰囲気を纏うものでした。
(それは初長編『心象の果ての少女』のベイスにも組み込まれた)

しかし作者はさすがに(作品の)場数を踏んでるだけあって
完成度洗練度ともに私の木っ端な小品とは比ぶべくもありません。
例えば、若いですからどうしてもアクセルばかり踏みがちになるんですが、
作者はブレーキングが上手い。
それもフットブレーキではなく、エンブレを使ってるのが円熟。
何の前触れもなく時系列が瞬間的に遡って場面が変わるのだが、
その主体となる視点は不変であり、またふっと時が(場面が)戻る。
現在の「俺」はそのまま連続していて思考だけがふっと切り替わり、
また元へ切り替わる。なので、場面転換に伴う切り貼り感をほとんど
感じさせずにキャラの造形が整っていくんですね。
(私なら回想のセクションとか別キャラで語らせるとかで、つい説明的に
やってしまうとこで、そうすると物語が肥大化する)。

考えてみると、人間の思考ってのはまさに(若干の長短はあれども)
極めて短い時間の連続なんですが、その思考のとりとめのない不連続性を
逆に利用することで、現在に過去の時系列が突然割り込んできても
我々は自然に(かつ瞬時に)ピントを合わせてしまうんですね。
これは映像的な手法をそのまま文章化したような感じなので、
まさに映画を視るように映像が浮かんでくる。
しかも上手いのはラストで、それまでの切り替わりの幅とは桁違いの
切り替えしがクルんですねえ。脱帽です。

@

総評
五人中四人の作者が「人の死」を
作中に大きく取り込む形で書いている。
その点にまず驚きを禁じえない。
5月11日付け産経新聞の報道によると、
未成年者の自殺者数は年齢階級別で
最も少ないそうであるが、
死因別に見ると非常に高くなるそうだ。
これはいったい何を意味しているのだろう?
今回四人が四様に描いてみせた「人の死」は、
どれも単なる味付け(アクセント)として盛り込まれたもの
とは思えない。作者らはちょうど未成年を脱した頃合
と見受けるが、そんな彼らが、自然的な死から最も遠いはず
(と信じる)彼らが、「人の死」に様々な思いを馳せる。

「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」――
とは日蓮の言葉であるが、日本人が「人の死」から
隔離されて久しいなか、あの東北の大震災は否応無く、
隔離し切れぬほどに、「人の死」を我等に突きつけた
のではなかったか。そして将に、四人の作者たちは、
十代という多感な時期に大勢の唐突なる「人の死」を
目の当たりにした。
あの未曾有の天災を受けた後、
様々な人間が様々なことを語り始めたが、
本当に語られるべきことが語られる事は
ほとんどなかった、というのが、私のずっと思うところである。

上述の日蓮の言葉には「人の寿命は無常也」
という前振りがある。
この感性を若い人にどう伝えるかということが、
私の沈黙の一角をずっと占めていたわけであるが、
言葉で語らずとも現象(震災死に限らない、死一般)から
本質を悟る感性が一部の知識人だけでなく、
市井の若い人たちの中にもそれとなく
受け止められていることを感じた次第である。

同時に、イメージだけが先行し、
死に魅入られてしまう中学生もいる。
そこにはやはり、言葉の必要性重要性を痛感せざるを得ない。
真摯に言葉を紡ごうとする側に立ちたい意思をもつ私は、
その準備のため今年一歩を踏み出したが、
文学フリマという場で若き同志たちの姿(作品)に接し、
またやりきれない中学生の自殺の話を聞き、
言葉のほうでも踏み出すべく
研鑽の手に力が入るこの頃である。

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